Principal ACORN vol.5  New York 2010: 硝子の街にて 番外編

ACORN vol.5  New York 2010: 硝子の街にて 番外編

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Año:
2018
Idioma:
japanese
ISBN:
B078V96N3M
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ACORN vol.4 厄介な連中16: 昇るか降りるか東京タワー

Año:
2018
Idioma:
japanese
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ACORN vol.3 厄介な連中15: 春霞たなびく墓地のメッセンジャー

Año:
2018
Idioma:
japanese
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Character

    1

    2

    3

    4

    5

     あとがき





   硝子の街にて 番外編





New York 2010





        Sleep tight.

        ……Don't let the bedbugs bite.





柏枝真郷





Character




広瀬伸行…………スカイ・トラベル社NY事務所主任



シドニー・ホプキンス……NY市警察本部殺人課警部



ヘンリー・オズボーン……同 警部補



スティーブ・レビン………消防士



ドロシー・シェーラー……NY市警察本部殺人課刑事



セシル・ペティト…………同



デイル・クラビッツ……スカイ・トラベル社NY事務所副主任



小野田忠相…………………同 アルバイト



ビリー・ダンカン………アパレル店『DB』の売り場主任



ジャック・マッケイ……同 店長





     1





 アスファルトに混入されたリサイクルのガラス片が朝陽を弾き、午前七時だというのにサングラスが必要なほどの眩しさだった。街はまだ半分眠っている。

 大半のオフィスビルはシャッターを降ろし、高級ブランドが並ぶ五番街も人通りはまばらだ。しかし車道は早くも通勤ラッシュになり、摩天楼の谷間に反響するクラクションやエンジンの騒音が真夏の熱気を増幅させようとしていた。

「だから、床虫とこむし (南京虫)は警察じゃなく、ヘルプラインの『三一一』なのよ」

 シドニー・ホプキンスが覆面パトカーの助手席から飛び降りたとたん、機関銃も負けそうな早口の女性の声が聞こえた。ニューヨーカーは歩くのも喋るのも加速度がついているような速さだが、息継ぎもせず、かつ、腹式呼吸で鍛えたような声量のある声の主はよく知っている。

「困ってるのはわかるが、殺人事件だと虚偽の通報をするのは困りものだな」

 続いて聞こえたソフトな男の声にも聞き覚えがある。暴力とは無縁の平和主義者らしい穏やかさだが、根底には無理強いされても簡単には引き下がりそうもない意志の強さがある。刑事だから当然だろう。

「先客がいたようですね」

 運転席から降りながら、ヘンリー・オズボーンが苦笑した。アフリカ系で、引き締まった体を濃紺のスーツに包んだ姿は、有能な   おそらくマネージャークラスのビジネスマンだと思われそうだが、彼も刑事だ。身分は警部補、四十歳を間近に控え、どこかの分署の管理職にと周囲から嘱望されているほど有能なのに、いまだに本部殺人課の一介の刑事にとどまっている。

 それはシドニーも同じだ。今年の五月に四十二歳になったが、たとえ五十歳になろうと管理職になる気は毛頭ない。堅苦しいスーツも苦手だ。着慣れた革ジャンにジーンズのスタイルを変える気もない。

「あ、ホプキンス警部」

 振り向いたのは、先ほどの早口の女性だった。燃えるような赤毛のロングヘアに、愛らしい顔立ちは、骨董品屋の隅に澄まし顔で座っている人形を思わせるが、彼女も本部殺人課の刑事だ。年齢は三十半ば、ファッションモデルにでもなれそうなスタイルの良さで、とても一児の母だとは思えない。名前はドロシー・シェーラー。結婚してスペンサー姓になったが、便宜上シェーラー姓のまま通している。「警部までいらしたんですか? 偽の通報なのに」

「もとからここに来る予定だった」

 シドニーは短く答え、周辺を軽く見回した。高級住宅街として知られるアッパーイーストの三番街に沿って、大手カジュアル衣料店のショップが並んでいる。下層階が店舗と倉庫、上層階はコンドミニアムになっている建物が多く、高級ブランドが並ぶ五番街の重厚さとは対照的な通りだが、高級住宅街の景観を損なわないようにとの配慮からか、奇抜さを抑えた落ち着いた色合いでデザインされた店の看板が濃い緑の街路樹に隠れるように連なっている。

 とはいえ、リーバイスのように今や老舗ブランドになってしまった店もあれば、半年で消えてしまう店もあり、新陳代謝の早さは五番街の倍以上だろう。

 今、覆面パトカーが駐まっているのは、今年の春にオープンしたばかりだという店舗の裏口だ。店の名前は「DB」   建物そのものは築三十年ほどの比較的新しい高層コンドミニアムで、切石を模した灰色の壁がコンクリートの安っぽさとは無縁の威厳まで醸し出している。

 一方、「DB」のロゴは赤、青、黄色のポップな組み合わせだ。まるでオモチャ屋のようだが、やはりカジュアル衣料品店で、子供向けのサイズはないらしい。

「警部の趣味にあうような服は売ってなさそうですが」

 苦笑しながら振り向いたのは、先ほどのソフトな口調の刑事だった。やや前髪の長い金髪に涼やかな緑の眼、男性ファッション雑誌のモデルにでもなれそうな青年だが、やはり彼も; 既婚者かつ二児の父親だ。名前はセシル・ペティト、ドロシーとは独身の頃からの相棒で、美男美女の恋人同士かと勘違いされがちだったが、二人とも人生のパートナーは他で見つけたらしい。「俺の趣味でもないけど」

「当然じゃない。ティーン向けだもの。『diddly-bop』(気晴らし)の略だそうだけど、一時的にはまってすぐに見向きもしない世代にぴったりかもね」

 ドロシーが機関銃ばりの早口で相槌を打ち、裏口へ向き直った。重い鉄製の扉の前に、丸顔の青年が立っている。まるまると太った大柄な体格が、どう見ても十代、せいぜい高校生くらいにしか見えないのは、服装のせいもあるかもしれない。ポケットにチェックの布が使われたオーバーオールで、子供服にありそうなデザインなのだ。

「ここの従業員か?」

 シドニーの問いに、セシルが答えた。

「売り場主任だそうです」

 名前はビリー・ダンカン、年齢は二十五歳だという。

「スタッフからは『BD』と呼ばれてる」

 自分の胸を叩いたビリーが、丸い顔をさらに丸くして笑った。「『DB』の逆で憶えやすいだろ?」

「俺としてはビリーのほうが憶えやすいが」

 シドニーはにこりともせずにビリーをにらんだ。「まずは殺人事件だと通報した件について説明を」

「もうその刑事さんに話したけど」

「もう一度」

「……だから、ええと間違えたんだよ。ヘルプラインが『三一一』だなんて知らなくて」

 ビリーの笑顔が引きつった。「それで『床虫だ』なんて言っても、緊急度が低くて後回しにされるかと思ってさ。そりゃ『殺人事件だ』と言ったのは嘘かもしれないけど、開店中に床虫が出たら、客がパニックになって殺人事件も起こるかもしれないだろ? なにしろ今日から夏物のセール開始だから」

「開店前に床虫を発見できて良かったな。今日は休店するしかあるまい」

「そんな馬鹿な。休店したくないから通報したのに」

「……意味がわからん。警察が捜査するとなれば立ち入り禁止だ。営業できるわけがないだろうに」

「話のわかんないおっさんだな。どうせ床虫を退治しなきゃならないんだぜ? 最も徹底的かつ効率よく捜索できるのは警察じゃないか」

「つまり   警察に床虫の捜索をさせたかったのか?」

「その通り」

 ずんぐりした指を打ち鳴らし、ビリーが笑う。「ほら、TVの『CSI』とかでやってるじゃん。鑑識課が捜索すれば、どんな小さな虫もすぐに発見できるだろ?」

「いい加減にしてよ」

 ドロシーが割り込んだ。「一時間で事件を解決できるTVドラマと現実は違うのよ?」

 口の早さ以上に短気な性格だが、彼女でなくても忍耐の限度を超えそうな話だ。シドニーは内心で頭痛を堪えながらも、冷静に質問を続けた。

「では、君が床虫を発見した時刻は?」

「やっぱり話がわかんないおっさんだな。まだ発見してねえよ」

 ビリーが大袈裟に舌打ちしながら、半袖のシャツを捲る。「ほら、ここ。刺された痕だよ。シャツの下も刺されたし、もう痒くて痒くて」

 太い腕には確かに赤い斑点ができている。何度も引っ掻いたらしく、周辺まで赤くなっているのを見ると、シドニーまで痒くなってきそうだ。

「質問を変える。刺されたのに気づいた時刻と場所は?」

「一時間ほど前かな。朝飯を食って、セールの準備前のチェックをしようと売り場を歩き回っていたら、なんか痒くて」

「一人で? 他のスタッフは?」

「そのときは俺ひとりだった。なにしろ主任だろ? 鍵を持ってるのも俺だけだから、一番に来なきゃいけないんだよ。今はもう五人全員が来てる」

「その五人は売り場に?」

「スタッフルームに籠もってる。床虫に刺されるのは厭だって」

「厭? スタッフが床虫を捜さなくて誰が捜すんだ?」

「俺もそう言ったんだけどさ。病気になりたくないとか」

「床虫は伝染病の媒介にはならない」

「嘘だろ? だって、今の床虫は殺虫剤が効かないとか」

「それは耐性ができているのと、今の殺虫剤が人間には無害なように毒性が低くなっているからだ。耐性があるのと、伝染病を運ぶのとは別だ」

「……へえ。そうなんだ」

 ビリーは初耳だったようだ。この種の誤解が蔓延しているのは慣れているので、シドニーは内心で溜息をついただけだったが、ビリーの次のひと言は意外だった。「じゃあ、それをスタッフにも言ってやってくれよ」

「主任は君だろうに」

「俺は刺されたからさ。スタッフルームにも入れないんだぜ?」

 ビリーがポケットから携帯電話を取り出し、なにやら操作してから液晶画面を差し出した。「ほら、これ。スタッフからのメールだよ」

 床虫の発生を公表し、完全に撲滅するまでの休店を要求する。その間、我々スタッフには有給休暇を   液晶画面にはそんな文字が並んでいた。

「端的な要求だな。このメールの発信人はスタッフのリーダー格なのか?」

「最古参だよ。俺がここ   この店じゃなく、ヴィレッジの本店でアルバイトする前からいたから」

「いつ頃?」

「一昨年の暮れかな」

「この店のオープンは今年の三月だったな。一年と数ヶ月で売り場主任とはスピード出世だな」

「そりゃ才覚があるから」

 得意げに胸を叩き、ビリーが笑った。「俺の実力だよ。売り上げも客の満足度もダントツだったからさ。俺もただの売り場主任で終わるつもりはないぜ。いつか店長になってみせる」

「その店長は、今どこに?」

「病院かな」

 ビリーが再び携帯を操作して、別のメールを表示させる。体調不良により病院で検査を受けるため、出勤が遅れる、という内容のメールだった。受信時刻は今朝の午前六時だ。「セールの初日だけど、あの店長はいてもいなくても同じだから」

「お飾りの店長なのか」

「いや、有能だよ。管理職としてはね。どこかのアパレル大手からヘッドハンティングしてきたって話だから。でも、四十超えたおっさんに『DB』のセンスは無理だろ? だから何をどう並べるかは売り場主任の判断になるわけ」

「適材適所だな」

 四十超えたおっさんは自分も同じだと思いつつ、シドニーは冷静に相槌を打った。現場を部下に一任していても、有能な上司は多い。お飾りでも放任主義でもなく、肝要な手綱だけはしっかり握り、全体を広範囲に見守りながら戦略を練るタイプだ。「副店長は?」

「そんなもんいないよ。店長の下が売り場主任の俺」

 少数精鋭なのか、あるいは人材が足らないのか。急成長した企業にありがちなことだが、店長不在時の代行もビリーになるらしい。

「ならば、君が店長代行としての責任で、スタッフに対処するんだな」

「何度言わせるんだよ? 俺は刺されたから、スタッフルームに入れないんだって」

「メールで交渉すればいい。要求もメールなんだから」

 シドニーはビリーに背を向け、ヘンリーに目配せしてから歩き出した。「シェーラー、ペティト、あとは任せた」

「了解しました」

 ドロシーとセシルの合唱のような返事を背中で聞きながら、シドニーはヘンリーとともに店を出た。すぐに覆面パトカーに乗り込んで走り出す。

「店員たちは何も知らないようでしたね」

 通勤ラッシュが始まり混雑してきた車列を、神業運転で進みながらヘンリーがつぶやいた。「店長が撃たれたことを」

「あのビリーとかいう売り場主任がよほどの名優でない限りな。メールでの『出勤が一時間ほど遅れる』という連絡が事前にあったからだろうが」

 シドニーはサングラスを掛けながら、フロントガラスをにらんだ。「とりあえず、あの店にいる従業員も売り場主任も、アリバイはあるわけだ」

「店長が撃たれたのが、午前六時半頃ですからね」

「だが、早朝ジョギング中に撃たれたのに、『体調不良により病院で検査を受けるため、出勤が遅れる』という内容は矛盾している。メールは遅刻するための方便か」

「ジョギングの後に何か別の予定が入っていたとしか考えられませんね。セール初日なのに」

 考えながらも神業運転を続けていたヘンリーが、そこで苦笑した。「あの店、もしかしたらアンジーが密かに憧れているブランドかもしれません」

 アンジーとはヘンリーの愛娘で、そろそろティーンの仲間入りをする年頃だ。

「密かな憧れ?」

「雑誌で見ていたような記憶があるんですよ。あのチェック柄のジーンズに似ていました」

「背後からこっそりのぞき込んだような表現だな」

「……遠目に見ただけですよ」

 照れくさそうなヘンリーは、すっかり親馬鹿の表情になっている。アンジーが生まれたときから、妻のケート曰く「将来ボーイフレンドでもできたら大騒動になりそう」なほどの子煩悩だったのだが、その日が近づいているのかもしれない。「でも、床虫とは……。万が一、アンジーがセールで買い込んできたら、我が家でも対処したほうが良さそうですね」

「そういえば、昨日ノブが対処法を書いたチラシを持ち帰ってきたな。JFK空港からのバスの中で配るために作ったサンプルだが」

「どんな内容です?」

「大半がショッピング時の注意かな。ホテルの客室で床虫が発生しても、ツアーガイドにできるのはホテルのスタッフに連絡することだけだから」

「そういえば、どこかの格安ホテルでも発生したとか。バックパッカー向けですから、スカイ・トラベル社で利用するホテルとは関係なさそうですが   大変なのは同じでしょうね」

「旅行中に不快な経験をしたら、旅行会社の責任でなくても印象は悪くなるだろうな。客が犯罪に巻き込まれるよりは遥かにマシのはずだが」

 窓から吹き込む初夏の風が心地よい。摩天楼の窓ガラスが反射する陽光はサングラスが遮ってくれているが、早くも高くなりつつある気温と、風が運ぶ砂埃に、ふとシドニーは遠い砂漠の地を思い出していた。

 迷彩服を着た兵士たちが、防虫用のネックレスやブレスレットを巻いていたあの頃   多種多様な害虫、蛇やサソリや、その他ありとあらゆる危険な有毒動物や病原菌やウイルスへの対処法を叩き込まれたが、何よりも恐ろしいのは地雷や爆撃機だった。

 あれからすでに十数年   いや、あと数年で二十年にもなる遠い日のことだ。青空の向こうに、雲を突くかのように背を伸ばそうとしているフリーダム・タワーが見える。シドニーは煙草をくわえて火を点け、追憶を振り払った。

 五番街を南下して、マディソン街に入ると、イエローキャブがどの車線にも何台も連なり、巨大な黄色いムカデの群れにも見えて、思わず苦笑する。グランド・セントラル駅が近づくと、上空に小さな青い旗が見えた。恋人のノブ   広ひろ 瀬せ 伸のぶ 行ゆき が勤務するスカイ・トラベル社の社旗だ。

 今朝もシドニーより先に出勤していったが、今も床虫の対策に追われているのだろうか。ニューヨーク事務所の全責任を負う主任だから、それなりに頼もしくはなったし、あと一ヶ月で三十九歳の誕生日だから、若い頃の童顔ゆえの幼さも消えてきたが、お人好しなのは幼馴染みだった少年の頃から変わらないから、つい心配になる。

「……Sleep tight. Don't let the bedbugs bite.(ぐっすりお休み。床虫に噛まれないように)」

 なぜか、そんな慣用句が口を突いて出た。

「懐かしいですね」

 ハンドルを切りながら、ヘンリーが笑った。「アンジーが片言の言葉を憶えた頃、よくそう言って寝かしつけてましたよ。そしたらある日、アンジーが『どこに床虫がいるの?』と   返答に窮しました」

「片言でも反論したのか。その頃から賢い子だったんだな。それで、何と答えた?」

「僕ではなくケートが『夜更かししてると、床虫が出てくるのよ』と   アンジーにとっては床虫もお化けの仲間になってしまったんじゃないですかね。本来は違う意味なのに」

「まあ、確かに逆だな。本来は、眠る前に床虫がいないかチェックするように、だったか。それこそアメリカ大陸が発見された大航海時代の頃だろう。DDTで床虫が絶滅したと言われた数十年前に、意味が変わったと考えればいいのかもしれん。そして今また本来の意味に戻りつつある」

「我が家で意味が戻らないことを祈るのみですが……。『DB』のような若者向けのアパレル店でもあの騒ぎだとすると、時間の問題でしょうかね」

「眠る前にシーツの下に床虫がいないかチェックするのが日課になるのか」

 想像しただけで、背中が痒くなるようだ   シドニーはただ苦笑するしかなかった。





     2





「広瀬主任、とりあえず拡大印刷してみましたが」

 同じ頃   マディソン街にあるスカイ・トラベル社ニューヨーク事務所では、アルバイトの日本人青年が、A3版に拡大印刷したポスターのようなものを持って歩いてくるところだった。

 主任席   といっても、事務机のサイズは他の社員と同じで、決裁箱が載った脇机がついているのだけが違いのような席で、広瀬伸行はプリンターで印刷したチラシをにらんでいた。

 主にショッピングでの注意事項を箇条書きにしたものだ。



 ・購入前に注意深く確認する。特にアウトレット店では不自然なシミの有無をチェックする。

  血液のシミは床虫の餌になるから購入は控える。

 ・更衣室では、鏡の裏や壁のプラグなどに床虫が隠れていないか確認する。

 ・試着する衣類や脱いだ自分の着衣を、試着室内の椅子や床に置かない。

 ・客室に入る前に、買い物袋の中を確認する。

 ・購入した洋服を着る前に、お湯で洗濯し、高温で乾燥機にかける。



 読んでいるだけで、体中が痒くなるような内容だ   と思う。

「ありがとう」

 伸行は、アルバイトの青年からポスターを受け取った。内容はチラシと同じで、到着したツアー客たちのオリエンテーションのための部屋に常時貼っておく予定なのだ。「昨日も思ったんだが、お客さんから質問が出たときの答えも用意しないと。たとえば、『洗濯できない衣類はどうすればいいのか』と訊かれたら?」

「そうですね……。クリーニング店に持っていくしかないですよね。ただし、日本に帰ってから、でしょうか」

「そうだな。ニューヨークはコインランドリー兼用のクリーニング店が多いから」

 伸行は考えつつ、ポスターに拡大印刷された床虫の写真をにらんだ。写真の下に「成虫は5ミリ~7ミリ程度」と注記されていなければ、ゴキブリのような大きさかと錯覚しそうだ。「五ミリ程度の虫か……」

 色は濃い茶色   日本のように蛍光灯が主流の家庭では眼につきやすそうだが、ニューヨークのホテルや住宅は間接照明が主流だから、見えにくいかもしれない。

「ノブは床虫を見たことはあるの?」

 英語で尋ねたのは、この事務所の副主任兼運転手の、デイル・クラビッツだ。アフリカ系で、女性なのに伸行よりも一回り大きいほど体格がよく、長いドレッドヘアがよく似合う頼もしいアメリカのお母さんといった雰囲気の持ち主だが、実際に頼もしいサポート役をこなしてくれている。

 ニューヨークで生まれて育ち、路線バスの運転手を四年間もしていたという異色の経歴の持ち主だ。結婚して一児の母になったのち離婚、小学校へ通う子供の送り迎えができないと親権を夫に取られるかもしれないという懸念から、時間的な融通の利くタクシーの運転手として働きつつ、子供を育てていたが、中学生になって送迎の必要がなくなったのを機に、スカイト・ラベル社が出した運転手募集の広告を見て応募してきたのは、一九九九年の年明けだったろうか。

 すでに十年以上も勤務しているから、数年毎に駐在員が入れ替わる事務所内では、伸行に次いで長いキャリアの持ち主でもある。今では日本語はほぼ聞き取れるし、話すこともできるが、事務所内では意図的に英語を使っているようだ。

「一度もない」

 伸行も英語で答えた。「ニューヨークでも見たことないし、小学生になって日本に帰ったときには、殺虫剤で絶滅しかけてたんじゃないかな。デイルは?」

「それが曖昧なのよ。子供の頃に見たような気もするし、別の虫だったかもしれないし。害虫はどれも『bug』だったから」

「バグですか」

 アルバイト青年が英語で口を挟んだ。「俺が高校生の頃は日本で『バグ』と言ったらコンピュータのバグの意味でしたね。俺の同級生たちも、英語の『虫』の意味だと知ったのが後だったほどで」

 名前は小野田   単身渡米する者に物怖じするような性格の者は少ないが、まだ二十代前半で、伸行がニューヨークに戻ってきたのと同じ年頃なのに、当時の自分よりずっと逞しいと思う。

 もともと帰国子女だったそうで、英語も堪能だ。なぜか帽子が好きらしくて、今日は赤いシルクハットのような形の帽子をかぶっているし、服装もルーズフィットのシャツにサスペンダーのついたパンツと、個性的な恰好をしている。伸行も昔は伸び放題のボサボサ長髪だったが、個性的というより、ただ床屋に行くのが面倒だっただけなのを考えると、雲泥の差だ。

「要するに、古来からいるのに『見たことがない虫』ってことか」

「他の虫を見ても、床虫だと騒がれそうですね。そういえば、ニューヨーク州の州虫   シンボルの虫がナナホシテントウ虫ならぬ九つ星のテントウ虫なんですよね」

 小野田が天井をにらんだ。「州花と同じように州虫があるのかと驚いて調べたときに知ったんですが、九つ星のテントウ虫そのものも初めて知りました」

 テントウ虫の英語名は「ladybug(レディバグ)」   その鮮やかな体の色から「レディ」と名付けられたのだろうか。

「俺も初耳だ。九つ星のテントウ虫も見たことないな……いや、テントウ虫そのものを見なくなって久しいかも」

「私も最近は見てないわね。でも、まだ公園に行けば……」

 デイルが小首をかしげて考えている。それから、思い出を辿るように暗唱しだした。



  Ladybug, ladybug, fly away home,

  Your house is on fire, your children will roam,

  Except little Nan, who sits in a pan

  Weaving gold laces as fast as she can.



            (Roud Folk Song 16215)



「懐かしい……。それ、子供の頃に近所の子たちと歌ったな」

 伸行も一瞬にして幼い日に戻ったかのような錯覚に陥っていた。そうだ   まだホワイトストーンの生家にいた頃だ。シドニーの愛犬ベスも一緒で、近所の幼馴染みたちととともに原っぱも同然の公園で遊んでいた……。

「マザーグースですね」

 小野田がもっともらしくうなずいた。「テントウ虫への警告ソング。アブラムシをテントウ虫が食べるのが習性だったから   昔はアブラムシを退治するのに作物を燃やしてたんですよね。日本語で言えば『飛んで火に入る夏の虫』のようなものでしょうか」

「その日本語の諺は意味が違うと思うが」

 伸行は苦笑したが、デイルには初めて聞く諺だったらしく、小首をかしげている。「ええと   電球が発明される前はガス灯とかカンテラとか、火を使った灯りが主流だったろ? 虫はその灯火を目指して飛び込むから、危険や災害に自分から身を投じることを言うんだよ。『夏の』がついてるのは、夏の虫限定という意味ではなくて、夏のほうが虫が多いからかな。文字数が七・五になって語呂もいいし」

 自分でもあやふやな知識を説明するのは難しい。黙って聞いていたデイルは腕を組んで考えたのち、にっこり笑って手を打ち鳴らした。

「つまり、消防士みたいなものね?」

「……それも少し違うような……」

 ますます説明に苦慮していると、

「消防士に用か?」

 ドアから赤い巻毛の男が入ってきた。羽織っている薄いジャンパーにはFDNYのロゴがついているから、見ただけで消防士だとわかるが、屈託のない顔には絆創膏が二枚も貼られている。

 スティーブ・レビン   一足先に四十代に突入したが、小隊長に昇進した今も現場に出て指揮を執りつつ自ら炎をくぐっているから、絆創膏は必需品らしい。

「違うよ。日本の諺を説明していたんだよ」

「自分から火に飛び込んでいく虫のことよ」

 デイルが要約しているが、ますます誤解されそうだ。

「そりゃ消防士のことじゃねえか」

 案の定、スティーブは大きくうなずいている。「大火災の前では人間なんか虫みたいに小さなもんだぜ」

「だから違うんだよ。良い意味ではなくて   虫はそれが火だとは認識していないんだよ。誘蛾灯に集まる蛾のように、灯りだと思って飛び込むわけ。つまり、『罠にかかったな』と嘲笑したり、無謀さを戒めたりするときに使う感じかな」

「……間抜けの意味かよ」

 がっかりしたように肩を竦めたスティーブは、しかし一瞬だけ考えたのち、拳を打ち鳴らした。「やっぱり消防士だぜ。新米な消防士がやりがちな危ねえ行為だ。上階で助けを求める声がするからと、応援も待たずに火の中に飛び込んだりな   まあ、俺もそうだったが。よく小隊長に『果敢と無謀を履き違えるな』と説教されたもんだ」

「今はスティーブがその小隊長だろうに。こんなところで油を売ってていいのか?」

「シフト明けだ。これから帰って眠るところだが、この数日、九一一に床虫の通報が殺到して、通信室の連中が頭痛薬が必要になるほどだと聞いたから、旅行会社も対応に追われてるだろうと思ってさ」

「だからこれを用意してる最中」

 伸行はポスターを指さした。「日本語は読めなくても、ここにちゃんと『311』と数字が書いてあるのはわかるだろ?」

「わかる。数字だけは万国共通だからな。ちゃんと床虫の緊急対応窓口だと書いてあるのか?」

「もちろん。あと、ここに小さく『911』と書いてあるだろ? 『911は火災や犯罪などの通報先なので、絶対に連絡しないように』という注意書きだよ」

「もっとでっかくならねえのか? 赤い文字にするとか」

 ポスターをにらむスティーブは不満げだ。「こうしている今にも、どこかで子供が火事に巻き込まれて助けを待ってるかもしれない。強盗に入られて、必死にドアを押さえながら、警察に助けを求めている人がいるかもしれない。それなのに、命綱を握ってる九一一のオペレーターは床虫の通報を受けてるんだぜ?」

「それは笑い事じゃ済まないわね」

 デイルが難しい表情になった。「もともと悪戯の通報は多かったのよね?」

「多いぜ。消防車が出動してみたら悪戯だった、なんて無駄足もある。もしもその間に他で火災が発生してたら、到着が遅れることになるし、運が悪ければ助かるはずの命も助からねえ、ってことにもなりかねん」

「それじゃ、その悪戯電話をした人は殺人犯も同然ですね」

 小野田も真面目な表情でうなずいている。個性的な服装とは裏腹に、根は真面目だし、人命にかかわる深刻さを考えているようだ。「さらに今度は、床虫が人を殺すことにもなりかねないわけですか」

「……冗談でなく、あり得るな」

 伸行も他人事ではなかった。なにしろ恋人のシドニーは市警本部殺人課の警部なのだ。奇蹟的に治安が回復したと言われてから十年以上も経つが、まだ東京の治安とは比較にならないし、なにより、銃社会だ。

 伸行はシドニーの姿を思い描いた。黄金の髪と青空よりも蒼い瞳は少年の頃から変わっていないし、四十歳を超えても中年太りとは無縁で、逆に威厳のようなものまで備わってきたが、警部に昇進してもデスクワークが嫌いだから、平の刑事のように第一線で走り回っている。

 凶悪犯と対峙することも年中行事だ。警察官や消防士の家族たちが、ある日、職場や自宅に上司が聖職者を伴って訪れる悪夢にうなされる   そんな逸話や「殉職」の文字は心の底に押し込めて蓋をしてしまっているが、気休め程度でも危険を減らせる方法があるのなら、協力したい。

「それじゃ   」

 小野田が注意書きの部分を指さした。「文字のサイズを大きくしましょうか。フォントも目立つボールド系に変えて、色も変えて、『911』と『311』はさらに目立つように」

「そうだな」

 伸行はうなずいた。「チラシも明日から変えよう。今日の到着客には送迎バスの中で充分に説明してもらって、オリエンテーションでも強調してもらおう」

「それなら大丈夫だな」

 スティーブはやっと満足したらしい。「じゃあ帰って眠るか」と大きなあくびをしながら出ていった。





     3





 撃たれた店長の名前は、ジャック・マッケイ。四十三歳。住居はワシントン・スクエア公園に近いコンドミニアムで、早朝に公園でジョギングしている最中に撃たれたという。

 不幸中の幸いだったのは、即死でなかったことと、近くのジャズハウスで午前三時まで演奏が行われていたため、帰宅途中の客やミュージシャンたちが銃声を聞きつけて通報し、パトカーや救急車の到着が間に合ったことだろうか。

 ただし、犯人は逃亡していたし、マッケイはヴィレッジにある聖ヴィンセント病院のERでオペ中だ。助かるか否かは、「予断を許さない容体です」が病院側の答えだった。

 午前八時

 大理石のアーチが朝陽を弾いてまぶしい。いつもなら観光客や散歩する住人、チェスを楽しむ人たちやパフォーマンスをする人たちで賑わいだす時間だが、今朝は警察の黄色い封鎖テープが一画を閉鎖し、制服警官たちが野次馬やTV局のレポーターを遠ざけようと走り回っていた。

 マッケイが撃たれたのは、アーチの下をくぐって公園内に入った直後だったらしい。

「財布が落ちてましたので、強盗の可能性が高そうですが」

 六分署のベテランらしき刑事がシドニーとヘンリーに敬礼したのち、手袋を嵌めた手で証拠品用のビニール袋に入った財布を差し出しながら説明した。「身元を知るためにざっと見ただけですが、キャッシュカードとクレジットカードがなくなってるようです」

「現金は?」

 シドニーも手袋を嵌めてからビニール袋をにらんだ。黒い皮革製の二つ折りの財布で、開いた状態で袋に入っている。ブランドのロゴらしきものは見えなかったが、かなり使い古したらしく、縁が擦り切れ、皮もくたびれている。IDカードを入れるビニールのカバーには写真が入っていた。

「数十ドルほど残ってます。IDカードや家族写真もそのままで」

「銀行とカード会社に照会は?」

「同僚が手配済みです。ジャック・マッケイ名義の口座がある銀行と、カード会社もすでに判明して、監視体制に入ってます」

「迅速だな。手際がいい」

 率直に感心しつつ、シドニーはビニール越しに見える写真に注意を向けた。家族写真とは、これだろうか。中年の女性と高校生らしき少年の笑顔だ。

「被害者との関係は? 女房と子供か」

「確認中です。マッケイの住居はすぐそこのアパートですが、先ほど訪ねても、応答なしでした」

「勤務先の店に先ほど俺たちが行ってみたが、セールの準備と床虫の発生で大わらわだった」

 シドニーは軽く肩を竦めて手短に説明した。「店員たちより、『DB』の本社に当たったほうが手っ取り早いかもしれん。他のアパレルメーカーからヘッドハンティングされてきたそうだ」

「了解しました」

「携帯電話は? 病院にあるのか」

「……いえ。所持してませんでした」

 刑事が怪訝そうに首を横に振った。「ジョギング中でしたから、自宅にあるのかもしれません」

「マッケイの部下の話では、携帯にメールで『病院で診察を受けるために遅くなる』との連絡があったそうだ。メールの受信時刻は今朝の六時だった」

「撃たれる十分前ですね。家を出る直前にメールしたとすれば、ぎりぎりで辻褄は合いますが……ジョギングできるのに、病院で診察ですか」

「しかもセールの開始日にな。方便だったのかもしれんし、ジョギング後に本当に診察を受けるつもりだったのかもしれん。たとえば歯医者なら、走るのに支障はない」

「自分が親知らずを抜いたときは一日寝込みましたが」

 わざとらしく顔をしかめて右の頬を手で押さえてから、刑事が携帯電話を取り出した。「それも同僚に調べさせます」

「任せる。俺たちは被害者の自宅に行く」

「了解しました」

 刑事が敬礼してから、携帯を耳に当てる。シドニーはヘンリーとともに覆面パトカーに戻った。

「被害者の行動が不可解ですね」

 エンジンをかけながら、ヘンリーがつぶやいた。「人柄を知れば、納得できるのかもしれませんが」

「家族が知っているといいが」

 シドニーはダッシュボードに置いた証拠品袋をにらんだ。財布の中で女性と子供の写真が微笑んでいる。「この写真   もしかしたら古い写真じゃないか? デジカメでなく、フィルムで撮った写真   ほら、表面が絹目のようなざらついた加工になってる。一時期、カメラのプリントで、光沢を抑えたシルク加工が流行してなかったか?」

「そういえば、そんなものがありましたね。表面がざらざらしてるから、他の写真やビニールにくっつきにくく、指紋もつきにくくて扱いやすい。僕の結婚式の写真もたしかこの印画紙でしたし、アンジーが生まれたときに撮りまくった写真もそうです。現像とプリントを頼むときに、オプションで指定した記憶もあります」

 親馬鹿そのものの顔で笑ったヘンリーも、ダッシュボードの財布を見つめている。「そうです。財布に入れるのにも、シルク加工のほうがカード入れのビニール部分にくっつかなくていいと考えたのを憶えてます。これもそうかもしれません」

「だとしたら、この少年は、被害者本人かもしれんな。二十数年前の写真だと考えれば」

「この女性は、被害者の母親でしょうか。生きていれば、高齢になりそうですが……」

 ヘンリーの言葉尻が途切れたのは、生きていない可能性のほうが高いと考えたからだろうか。生きていれば、もう少し年老いた写真を入れそうなものだ。

「その辺の事情も、そのうち判明するだろう。この写真がデジカメで撮ったものかフィルムのカメラなのかも鑑識課で調べればわかるだろうし」

 想像だけを膨らませても、余計な先入観になるだけだ。シドニーは財布から目を離して苦笑した。

「しかし、おっさんの時代遅れの感覚も、たまには役に立つな」

「今はフィルムを探すほうが苦労しそうな時代ですからね」

 ヘンリーも笑い、覆面パトカーをスタートさせた。「デジタルカメラ機能も携帯やスマートフォンの標準搭載になりつつありますから、そのうちデジカメ専用機種もカメラマンかマニアだけの物になるかもしれませんね」

「ペーパーレス化でタブレット端末も普及してきたから、紙の写真そのものが骨董品的な価値になるかもしれん」

 思いつくままに口にしつつも、こんな予想自体がすでに時代遅れなのだろうと思う。窓の外を流れていく大通りに立つバス停も、二年前に全てリニューアルされた。洒落たガラス張りのデザインで、停留所名も縦長で大きく、路線ごとの色と白抜きの見やすい書体でわかりやすい。

 ワシントン・スクエア公園も、シドニーが刑事になった頃は麻薬の密売人たちが跋扈し、早朝のジョギングなどは自ら強盗に手招きするも同然の無謀な行為でしかなかったのだが、ここ数年は街の景観から落書きが消えていくように、危機感も薄れつつある。

 実際は、落書きを消すような容易さで、犯罪を消せるわけがない。ことに二年前のリーマン・ショック以来、ホームレスの姿も増えてきたし、二十代の若者たちの四割に職がないと言われている現状では、常に一触即発の危機をはらんでいる。

 ゆえに、今回の事件も起こるべくして起こったようではあるのだが

「お待ちしておりました」

 マッケイの住居があるアパートの前で待機していた女性の制服警官が、敬礼をして見守る前で、ヘンリーが覆面パトカーを駐めた。

「家族は帰宅したのか?」

 シドニーが先に降りながら尋ねると、警官は首を横に振った。

「いいえ、留守のままです。お隣の住人が在宅だったので聞いてみたのですが、『たぶん一人暮らしではないか』との答えでした」

 都会の常だが、隣に誰が住んでいるのかも知らないほど交流がなかったらしい。ただ、昼間は隣から物音も聞こえず、来訪者を見かけたこともなかったという。「分譲ではなく賃貸だそうなので、今、同僚が合鍵を取りに大家さんの家へ   あ、帰ってきました」

 幸いにも大家の家は近所だったらしい。男の制服警官が走ってくるところだった。まだ若いからか、全力疾走で駆け寄り、シドニーとヘンリーに敬礼をしてから合鍵を差し出した。

「大家の話では、一人暮らしだったようです。家族は施設に入っている母親が一人だけで」

「施設?」

「老人ホームです。足腰が弱いので四階の部屋で暮らすのは難しいのと、施設には専門の介護職員もいるし、友達も多いからだそうで。万が一の際に   仕事中で携帯電話に出られないようなときのための緊急連絡先として、大家の電話番号を施設に教えてもいいかとも訊かれたとか。大家は快諾して、念のためにと施設の電話番号も控えておいたそうです。その番号と施設の名前をメモってきましたが……」

 腰から板付きのメモ帳を取り出した警官が、ページをめくりながら軽く唇を噛んだ。「母親に連絡すべきですよね?」

 訃報を伝えるのも警官の役目だが、まだ若いから慣れていないようだ。息子が生死の境を彷徨っていると、老婦人に話すのは気が進まないのだろう。

「まずは、そのホームの責任者に事情を説明して相談すべきだろうな」

「……そうですね。ホームに電話をすれば、応対に出るのは職員でしょうしね。そうします」

 若い警官は少しほっとしたようだ。シドニーは合鍵を受け取りながら、先ほどの写真を思い出していた。母親と少年の写真   父親はすでに他界していたか、あるいは離婚などでいなかったのだろうか。なにしてもマッケイは母親思いだったらしい。「君たちはこのまま見張りを続けてくれ。応援が必要なときは連絡する」

 無線機のチャンネルを確認してから、ヘンリーと二人でアパートに入る。この付近は十九世紀に建てられた縦割りロウ 式アパートが現存している歴史的な地区でもあるが、マッケイの住むアパートはそこまでは古くはなくても第二次世界大戦前ごろの建築だろうか。色つきの煉瓦やバルコニーに出られるフランス窓が、当時の流行を今に伝えている。

 とはいえ、四階建てなのにエレベータもなく、階段のみなので、脚力に自信のない者は一階に住むほうが楽だろう。その階段も狭い板張りだ。

 多少は磨り減ってはいるが、長年磨き上げられて黒光りする階段を昇ると、踊り場ごとに花が生けられていた。最上階まで吹き抜けになっているので、天窓から差し込む陽射しが、教会の回廊を彷彿とさせる。

 深閑としているせいか、赤ん坊の泣き声や、TVらしき音声がやけに大きく響く。四階に到着すると、階段と同じ板張りの廊下にドアが三つ並んでいた。

 マッケイの部屋は廊下から一番遠い左端の「4A号室」だ。ヘンリーがとぼけた表情で、右手でドアノブを持ち、左手で鍵を開けるような動作をしてみせた。「鍵開けの特技が披露できなくて残念ですね」と言いたいらしい。

「昨今は電子錠ばやりだから、めったにできなくなったな」

 シドニーも小声で答えながら、合鍵を差し込んだ。その間にヘンリーが壁に肩をつけて拳銃を構える。コンビを組んでからすでに十数年   今は合図さえ必要ない。

 以前、伸行が「そういうのを、日本語で『阿吽の呼吸』と言うんだよ。『以心伝心』とも言う。テレパシーみたいなものかな」と言っていたが、それに近いだろう。

 鍵は上下に二箇所。手早く上の鍵を開け、下の鍵が外れる音がすると同時に、シドニーはドアを開け、拳銃を構えた。先に飛び込んだヘンリーの後を追って中に入る。

「クリア」

 各部屋をチェックしてまわり、侵入者がいないことを確認してから玄関に戻るのは家宅捜索の鉄則だが、さほど広くないので、二人でもわずか数分で完了した。

 間取りは不動産屋の広告で「2BR」と表示される造りで、寝室が二部屋、うち一部屋をクローゼットにしているようだ。キッチンにバスルーム、玄関から続く居間とダイニングルーム兼用のLDが最も広く、テーブルにはノートPCが置いてある。

「携帯もあるな」

 PCの横にはスマートフォンがマウスと並べて置いてある。無造作に置いたのではなく、きちんと位置を決めて置いたかに見えるのは、並んでいる書籍やペントレーなども整然としているからだろうか。「俺のデスクとは雲泥の差だ」

 市警察本部の、書籍や資料が雪崩を起こしそうなデスクを思い出して苦笑しつつ、シドニーは手袋を嵌めてからスマートフォンを手に取った。

 メールの送信履歴をチェックしてみる。最後の送信は   昨夜の午後八時だ。

「おかしいな。今朝のメール送信がない。別のメールアドレスでも使ってるのか」

 シドニーが首を傾げていると、横からのぞきこんだヘンリーが、

「PCも見てみます」

 ヘンリーがノートPCの蓋を開け、「スタンバイになってただけですね」とつぶやきながら、マウスを動かしだした。「来客もなかった、という隣人の証言は間違ってないようですね。セキュリティ対策はそれなりにしてますが、他の誰かがこのPCを使うことまでは想定していないようです」

「俺も自宅のPCはその程度だな。まあ、ノブと共用だし、さほど使わないが」

 シドニーは相槌を打ちながら、スマートフォンでメールの利用履歴をチェックし続けた。メールアドレスは幾つかあるようだが、勤務先との連絡のために使っているのはドメインに会社名が入っているものだけだろう。他のメールアドレスからも、今朝に送信した履歴はない。

「……ないですね」

 ヘンリーの声が聞こえた。「鑑識課に調べさせましょうか」

「そうだな。だが、誰かがマッケイになりすまして、メールを送信した可能性のほうが高そうだ」

「確かに   あのビリーという売り場主任が受け取ったメールの受信時刻に、ここから全力疾走しても、撃たれた時刻に、撃たれた場所まで到着するのは不可能でしょう。階段を降りるだけでも時間がかかります」

「鑑識に調べさせるべきなのは、ビリーの携帯のほうだな」

 シドニーはスマートフォンを机に置いてから、自分の携帯を取り出した。連絡先からペティトを選んで電話をかける。

「……はい、ペティトです」

 二秒後にペティトの声が聞こえた。

「ホプキンスだ。まだ『DB』の店内にいるのか?」

「はい。実は、シェーラーがあの売り場主任を公務執行妨害で逮捕すべきだと主張しておりまして。過激というか、やり過ぎですよね?」

「……いや、名案だ」

「え?」

「逮捕まではしなくてもいいが、売り場主任と、立てこもってる従業員全員を任意同行させろ。鑑識課に全員の携帯と、スタッフルームにあるPCあるいはタブレット、機種は問わずメールを送信できる機械を全部チェックしてもらえ。特にあの売り場主任が店長から受け取ったメールを重点的に。誰かが店長になりすましてメールを送った可能性がある。その時刻に、店長がメールを送信できたはずがない。ジョギング中に撃たれていたからな」

「……そういうわけだったんですか」

 ペティトはすぐに事情が呑み込めたようだ。「了解しました。他には?」

「全員の今朝の出勤時刻と、店に内紛がなかったか   とりあえず、店長が撃たれたことは伏せて、床虫に九一一通報した公務執行妨害として、様子をさぐれ」

「了解しました」

 ペティトの返事を耳に、シドニーは通話を切った。





     4





「そろそろ時間ね」

 デイルが肩をほぐすように腕を回しながら立ち上がったのは、午後三時を過ぎた頃だった。これから観光バスを運転して、JFK空港にデルタ航空で到着するツアー客を迎えに行くのだ。

 副主任なのにバスの運転手とは珍しいが、これはデイルが副主任に昇進する際に、自分から出した条件だった。

「ドライバーとしての仕事は続けさせてください。特に、到着客をJFK空港まで迎えに行くバスの運転は、私に」

 なぜ、ドライバーにこだわるのか   それは、デイルがこのスカイトラベル社の面接を受けて、最終テストを兼ねて初めて運転したのが、送迎バスだったからだろう。

 ノースウエスト航空がデルタ航空に併合される前の、遠い昔のことだが、伸行は今でも憶えている。年末年始の休みでツアー客が増える繁忙期だった。運転もできる社員の一人が体調を崩し、急遽、ドライバーを募集して応募してきたデイルの最終テストのバスに、なぜか伸行が審査員も兼ねて、ガイドとして乗り込んだからだった。

 デイルの運転は文句がつけようがなかった。むしろ、路線バスやタクシーの運転手としての長いキャリアで培った確かな技術は、伸行にも勉強になるほどだった。さらに、日本語はまったく話せないのに、英語だけでツアー客の心を掴んでしまったのだ。

 それは元々の陽気な性格と、天性の才能もあったと思う。

「Welcome to New York」

運転席から振り返り、両手を広げてそう言ったデイルの笑顔は、長時間のフライトを終えてニューヨークの地に降り立った客たちにとって、まさにニューヨークの象徴のように思えたに違いない。それから、フロントグラスを指さすように拳を突き上げ、「Let's go!」と掛け声をかけたのだ。

 このノリの良さに、客たちが歓声を挙げ、拍手喝采だったのは言うまでもない。かつてタクシーの運転手として空港から客をマンハッタンまで運んだ経験もあって、旅行客が何を望むのか、デイルは本能でわかっているようだった。

 最終テストはもちろん合格だった。伸行だけでなく、当時の主任だった高田   現在は東京本社で北米担当部の部長になっている   も、デイルを逸材と判断して、その日のうちに採用を決定した。もちろんデイルも喜んだが、単に就職できたことだけでなく、遠い日本からの旅行客を迎える仕事そのもののを体験できたことも、嬉しかったように見えた。

 JFK空港はたしかにニューヨーク市の中にあるが、ジャマイカ湾に面したクイーンズ区の外れで、マンハッタンまで車で三十分はかかる。千葉県成田市にある成田空港と東京駅ほど離れてはいなくても、空港に降り立ったときに見える風景は、TVや映画で描かれる摩天楼が林立する都市とは異なる田園地帯だ。

 客たちにとってニューヨークとはやはりマンハッタンであり、そのマンハッタンまで客たちを運ぶ仕事は、旅の第一歩を手助けし、旅への期待を共有するような特別な感覚がある。伸行が送迎バスを運転したときもそうだったが、デイルは生粋のニューヨーカーだから、故郷に客を迎えるような思いもあったのだと思う。喜んでもらえれば嬉しく、褒めてもらえば誇らしい。

 さらに   これが最も重要だが、安全上の観点から、大型バスを運転できるBクラスの免許を取ったばかりの初心者に、五十名もの乗客を任せるわけにはいかないのだ。車は一歩間違えれば、「走る凶器」になりかねない。デイルの運転技術は、今でもこの事務所で一番だ。

 そんな幾つもの理由から、デイルはドライバーであることにこだわりを持っているのだと思う。

「では、行ってきます」

 アルバイトの小野田がチラシを挟んだパンフレットを持って、デイルと一緒に出ていった。

「行ってらっしゃい」

 伸行は軽く手を振って送り出しつつも、少しだけ羨ましかった。客の対応で疲れても、とにかく事務所の外へ出られるのだから。

 もしも、誰かに「主任の仕事内容は?」と問われたら、即答できる。

 答えは「留守番」だ。

 冗談ではなく、「事務所にいること」が、主任の仕事であり、責任なのだ。携帯電話が高性能になり、ネット経由でテレビ電話ができるようになっても、万が一の際にはこの事務所の固定電話が頼りだ。実際に「九・一一」のときには、携帯電話は使えなくなった。崩落したツインタワーが、電波塔でもあったからだ。当時に比べて電波状態は改善されてはいるが、有線と無線で安定度が違うのは、日本とさほど変わらない。

 そして究極の連絡手段は、結局、人と直に会って話をすることだと思う。旅行客が携帯やホテルの鍵、財布やパスポートなどの入った鞄ごと盗まれても、この事務所まで辿りつければ、なんとかなる   そんな確実な場所が、この事務所なのだ。

 個人でも格安航空券がネットで簡単に購入できるようになり、現地情報もネットで検索でき、旅行会社に頼らなくても気軽に海外旅行ができるようになって久しいが、それでも旅行会社が存続できるのは、その安心感が最大の理由だと思う。

 ゆえに伸行は事務所の責任者として、ここにいることが「仕事」なのだが、もちろん他にも仕事はしている。オプショナル・ツアーに運転手やガイドを割り当てるスケジュール管理も、ツアーごとにかかる人件費やガソリン代などの経費を試算しての企画書のチェックといった面倒な書類仕事も、東京本社や、ニューヨークの観光局、日本総領事館や、その他あれこれ公的な仕事も   要するに中間管理職としての仕事は片っ端からこなしてはいる。

(もう、完全におじさんだな……)

 堅苦しいネクタイやスーツとは無縁でも、就職するのが厭だと、モラトリアムな日々を送っていた二十代が遠い夢のようにも思える。そもそもこの会社でアルバイトを始めたのも、東京の大学を中退し、日本から逃げるように渡米してきた伸行には、当座の生活費稼ぎでしかなかったのだ。

 一日に数回、観光バスやワゴン車を運転して、客たちを運ぶだけの仕事で、事務所に顔を出すのは、バイトが始まる三十分前程度で良かった。時間的に拘束されているのはバイト時間中だけで、それが時給という計算方法で支払われる給金だと割り切っていた。

 それ以外の時間は自由   どこで何をしても良かった。安い給料で、家賃や光熱費を払うと残りはわずかだったが、贅沢をしたいとも思わなかったから、充分だった。

 今も贅沢をしたいとは思わないし、辞職してまたフリーターに戻ることもできるはずだ、とは思う。三十代もあと一年と一ヶ月しか残っていないが、力仕事でなければ、なんとかなる。

 それでもここに留まっているのは、結局は、この仕事が好きだからかもしれない。

 デイルと同じだ。地球の裏側から半日以上もの飛行時間を経て到着する日本人観光客に、楽しい思い出とともに無事に帰国してもらいたいのだ。ニューヨークは伸行にとっても生まれ故郷だし、少年期は東京で過ごしたが、すでに人生の半分はニューヨークで過ごしたと言えるほどになっている。

 悪い面も良い面もあり、一長一短なのは、どの都市でも同じだが、欠点も含めて伸行はニューヨークが好きだ。その好きな部分を紹介したいし、ほんの少しでもいいから共感してもらえれは、それだけで嬉しいのだ。

 それに   主任には、多少の特権もある。決定権だ。

 バイトや駐在員たちが出すツアーの企画に、ある程度は自分の裁量でゴーサインを出せるのだ。大がかりなものは無理だが、小回りの利く小さな企画は、試験的に取り入れている。むしろ、旅行会社が生き残るには、そんな柔軟な対応こそが必要だと思う。

「さて、と……」

 伸行はひとりつぶやいてから、机の横に置いた小さな箱を手に取った。オプショナル・ツアーの定番中の定番、「一日市内観光」で回るルートを見直すべく、アイディアを募っていたのだ。新しく入れたほうが良いスポット、外したほうがいいスポットを、簡単な理由とともに書いて箱に入れてもらった。一人で複数の案を出しても可、としたせいもあり、気がついたら箱がいっぱいになっている。

 最も多く提出しているのは、バイトの小野田だろうか。手書きでなく、PCで書いてプリントしたものだ。ざっと目を通してみるつもりだったが、伸行の手が思わず止まった。

 ポリス・プラザ   と書いてあったのだ。

 名前のとおり、ニューヨーク市警察本部がある場所だ。シドニーの勤務先でもある。

 本部建物前の石畳は公園になっていて、ニューヨークで最も安全な公園と言えるかもしれない。あの同時多発テロ以来、ゲートが設けられたりと、セキュリティが厳しくなってはいるが、一方で、洒落たファスト・フードのスタンドやテラス席もできて、昼食時には周辺の官庁街からのビジネスマンたちで賑わっている。

 伸行も、夕方にシドニーとの待ち合わせでよく使うのだが

 小野田がポリス・プラザを推薦した理由は、と見ると、こう書いてあった。

「日本のTVで放送されるアメリカのTVドラマの何割か、あるいは映画の何割かには必ずNYPDが出てきます。それなのに、その本部がどこにあるのか知らない人も多い。旧市庁舎の徒歩圏内ですし、休憩にもちょうどいいと思います」

 とりあえず納得できる理由だ。次の候補案の用紙を見ると、これも小野田だった。

 場所は「タイタニック号追悼記念灯台」   ポリス・プラザにも近く、サウス・ストリート・シーポートへの道沿いにある灯台だ。

 灯台とは名ばかりのモニュメントだが、もともと一九一二年に沈没したタイタニック号の追悼のために他のビルの頂上に建てられたのを、移転したのではなかったろうか。小野田の推薦理由は、

「映画でも有名なタイタニック号の記念碑なのに、観光客の大半は存在さえ知りません。知人のニューヨーカーでさえ知らない者もいました。サウス・ストリート・シーポートは昼食の休憩で寄る場所ですし、記念碑の近くでバスを停められる場所もそこしかないですが、せめてバスの中で、この記念碑の案内をすべきです」

 バスを停められる場所

 伸行は周辺の道路を思い浮かべた。指摘のとおりだ。道路が狭いうえに、地下鉄駅から徒歩でシーポートへ向かう観光客で賑わっているから、うかつにバスを停めるわけにはいかない。そこまで考慮しているとは、驚きだ。

 小野田はBクラスの免許を持っていないから、せいぜいワゴン車での小さなツアーでの運転か、あるいは今日のように観光バスでのガイド役しか任せていないのだが、それでも、どこでツアー客を降ろすのが最適か、把握しているらしい。

 伸行は感心しつつ、小野田の案だけを箱から取り出して目を通してみた。他には、ユニオン・スクエアの近辺にあるセオドア・ルーズヴェルトの生家、ブルックリンにある地ビールの醸造所   これには「時間をかけて、ゆっくり過ごしたい場所なので、専用のオプショナル・ツアーにしたほうがいいかもしれません」と書いてある。

 さらに、バスを使わずに対岸のニュージャージ州ホボーケンまでウォーターウエイで行く案   「ホボーケン駅は昔ながらのアメリカの駅の情緒が残っていますし、フランク・シナトラ生誕の地でもあります。一日市内観光では無理ですが、ぜひツアーにしてください」

 伸行は唖然として用紙を見つめた。要するに「一日市内観光」の案を募集したので、以前から考えていた別の案も混ぜてしまおうと考えたのだろうか。

 きちんとした企画書の形式で書いて出すのが面倒だったのか

 それならば伸行にも憶えがある。さらに伸行はPCが苦手だったから、企画書のテンプレートを呼び出すところから四苦八苦だった。小野田は手書きよりもPCで書くほうが得意そうだが、正式な企画書は肩に力が入りすぎて敬遠してしまうのかもしれない。

 アイディアは豊富だ。機転も利くし、なにより楽しそうに仕事をしている。バイトを始めてから一年にも満たないが、水を得た魚のように生き生きとしている。

(帰ってきたら、詳しい話を聞いてみるか……)

 苦笑しつつ小野田の案を読んでいると、携帯電話のベルが鳴った。仕事用のスマートフォンではなく、伸行個人の携帯だ。発信者は   スティーブだ。

「安眠できた?」

 挨拶代わりに尋ねると、

「まあな。夢の中で巨大な床虫に追いかけらずに済んだぜ」

 冗談のような返事が聞こえた。「それより、今、電話してて平気か?」

「大丈夫。例によって俺ひとりで留守番だから」

「同じ中間管理職でも、現場に出られねえ内勤ってのは、拷問だな。俺だったら、三日で『降格してくれ』って上司に頼み込みそうだ」

「シドニーも同じこと言ってたな。現場に出られないのなら、警部補のままでいいって」

 伸行も笑ってから、さりげなく言ってみた。「例のポスターとチラシは、指摘されたとおり直したよ。今日の到着客を迎えに行くガイドが、一時間ほど前に持って出ていった」

「それはご苦労。そのガイドって、今朝、事務所にいた奴か? 赤い帽子の」

「そう、その小野田くん。バイトだけど熱心だよ」

「……小野田か。ファースト・ネームは?」

「ファースト・ネーム? ええと」

 伸行は手元の用紙を見た。「忠相   タダスケだよ。変わった漢字だな。もしかしてご両親が大岡越前のファンだったとか」

「……珍しい名前なのか?」

「さほど珍しくないよ。ただ、漢字がちょっと珍しいだけ。昔の   サムライの時代の有名な裁判官と同じ漢字なわけ」

「どんなふうに有名なんだ?」

「庶民の味方で、権力には屈せずに、人情味がある判決を出したんだよ。長い歳月の間に脚色されて、ちょっと神格化されてるけど、法律を曲げずに、弱い者を助けるような解釈になるよう機転を利かせたりとか。今でも日本のTV時代劇になるほどの伝説的な有名人だよ」

「へえ……。だからか、なんとなく正義漢っぽい感じがしたのは」

「正義漢?」

 意外な形容に驚いたが、「justice(正義)」には裁判官の意味もある。それに今朝、小野田は「九一一に悪戯電話をかけるやつは殺人犯も同然だ」などと真面目な感想も口にしていた。「まあ、遵法精神はあるかな。ちょうど今、彼が提案した企画を見てたんだけど、バスを停める場所に注意してたりとか、気が利くタイプかも。アイディアも豊富だし、機転も利きそうな気もする」

「バイトなんだよな? 駐在員じゃなく。ってことは留学生か?」

「そう。映像関係の専門学校。ただ、アメリカには子供の頃にも住んでたとか。たしかミシガン州だったかな。お父さんが大手自動車メーカーの技術職で、ミシガン州に工場の建設と操業が安定するまでの管理と指導員として、家族揃って渡米して   小学校はそこの公立学校だと言ってた。その後、帰国して、大学卒業まで東京にいたとか」

「……へえ……。なんとなく、昔のおまえに似てる感じがしたんだが、そのせいか」

「俺に似てる?」

「雰囲気だけな。見た目は全然、似てねえぜ。それに、おまえほど鈍感じゃなさそうだし」

「……鈍感って……?」

「やっぱり気がついてなかったのか」

 呆れたようなスティーブの笑い声に、伸行が戸惑っていると、

「ただ今、帰りました」

 オプショナル・ツアーに出ていた駐在員とアルバイトの女の子たちがドアから入ってきた。

「お帰り」

 声をかけてから、ふたたび携帯に耳を当てると、すでに通話は切れていた。





     5





「で   結局、その床虫騒動は、店の内輪もめだったわけ?」

 ぐるぐる回る洗濯機の振動で、小刻みに揺れるベンチに腰掛けながら伸行が尋ねたのは、午後九時頃だったろうか。

 ナイトツアーなどの夜間ツアーはこれからが本番だが、それが終わるまで留守番をしていたら、一日の勤務時間が二十時間を超えてしまう。表向きは、伸行の勤務時刻は五時で終了、実際はオリエンテーションが終わる七時頃まで残っているが、その後は緊急時のみ携帯電話で対応することにして、帰宅している。

 日本風のサービス残業などないから、残業手当がもらえるのはありがたいが、人件費が嵩むと伸行の管理職としての能力が問われてしまう。その辺は痛し痒しといったところか。伸行としては、残業代よりも、シドニーと過ごせる時間が増えたほうが単純に嬉しい。たとえ、近所のコイン・ランドリーで洗濯しながら、デリで買ってきたサンドイッチやパック入りの総菜での夕食でも、シドニーと一緒なら美味しいのだ。

 幸運なことに、他に客はいない。十台ずつ並ぶ洗濯機と乾燥機で動いているのは、洗濯機が一台だけだ。

「そう。従業員たちが、新参の売り場主任を追い出すために仕組んだ罠だったわけだ」

 フォークでポテトをつつきながら、シドニーが説明を続けた。「ちょうど従業員の一人が、どこかの店で買った服に床虫がついていたのを発見して、捕獲したときに思いついたらしい。追い出したいのは、売り場主任だけで、店長には迷惑をかけたくない。だから店長になりすまして、店長のメールアドレスで、『病院に寄るために遅れる』というメールを売り場主任に送った。病院で診察中なら電話をかけるのも遠慮するだろう。売り場主任が店長に電話で指示を仰ぐのを防止しようという目論見だ」

「でも、それじゃ、店長が出勤してきたら、ばれるだろうに。そんなメールは送ってないわけだから」

「ばれても良かったのさ。首謀者だった最古参の従業員の自供によれば、もともとセールの準備で、店長以外は通常より一時間早く出勤する予定だったから、その一時間内に床虫騒動を起こせば、売り場主任に責任を押しつけられる。店長が出勤する頃には、従業員はスタッフルームに立てこもってるし、売り場主任も対応におおわらわで、『遅れるはずじゃなかったんですか?』などと尋ねることはないと踏んだそうだ」

 そこまで説明してから、シドニーがコーヒーを飲んだ。「まさか、売り場主任が『九一一』に通報するとは考えもしなかっただろうし、偶然にも、同じ時間帯にジョギング中の店長が、強盗に襲われることなど、予想外だったわけだ」

 従業員たちは、ジョギングが店長の毎朝の日課だったのも知らなかったのだという。

「プライベートはまったく知らなかったのか」

「全員、仕事の話しかしたことがないそうだ。ただし、従業員たちの評判は悪くはない。新任の売り場主任は自己中心的かつ自信過剰なタイプで、他の従業員の意見には聞く耳を持たないんだが、店長はきちんと聞いてくれて、売り場主任との調整役をやってくれたとか   人の扱いがうまいんだろう。ヘッド・ハンティングされたほどだから、無能なわけはないが」

「やりやすい上司のタイプかもね。売り場主任を追い出すのに、『店長には迷惑をかけないように』と、従業員たちが気を遣うほどだから」

 伸行は相槌を打ちつつも、部下たちが反乱を起こした売り場主任が、もしも自分の部下だったら、困ったことになりそうだと考えていた。協調性を重んじる日本人には珍しいタイプだが、いないわけではない。

「気を遣うというより、現状維持を望んだようだ。店長まで交代して、今の売り場主任よりも面倒な店長が入ってきたら困るといった感じかな」

 シドニーが肩をすくめてから、紙コップ入りのコーヒーを飲んだ。「店長が撃たれたと聞かされたときも、驚いてはいたが……。『容体は?』と尋ねた奴はいなかった。驚愕で思考や感情が麻痺していただけかもしれんが、全員、店長が死んだものと勘違いしてたな」

「……でも、助かったんだよね?」

「まだICUにいるが、医者の話では『念のため』で、回復に向かっているらしい。鑑識課が銃弾を検査したところ、他の強盗事件で使われた弾丸と線条痕が一致したから、床虫とは無関係の強盗事件ってことになりそうだが」

「施設にいるお母さんは?」

 伸行としては、そちらのほうが気になる。伸行の祖母は八十歳を超えても元気に東京で暮らしているし、父もいるから施設に入る必要もないのだが、四階の階段を昇り降りする生活はやはり無理だろう。

「施設の職員に連れられて見舞いに来てたが、元気でしっかりした老婦人といった感じだな。手押しの歩行器を使っていたが、歩行器なしでも歩くことはできるそうだし、それ以外は健康そのもの。店長の財布を見せたら、『まだこの写真を入れてたのね』と笑ってた」

「……笑って?」

「思い出し笑いだな。店長が高校生になったばかりの頃に両親が離婚したんだが、離婚訴訟で、親権を夫婦どちらにするかが最大の争点だったらしい。経済力は定職に就いていた父親のほうが上だったが、離婚の原因は父親が浮気ばかりしてたことで、店長も父親より母親が好きだったとか。高校生だから未成年でも社会性はあるし、判事も店長の意見を尊重して、母親に親権を与える判決を出した。その判決が出た直後に、家庭裁判所の近くの土産物屋で買った使い捨てカメラで撮った写真なんだそうだ」

「使い捨てカメラか」

 懐かしい言葉だ。デジカメや携帯のカメラが当たり前になったから、最近は見たこともないが、一時期は土産物屋の店先には、必ず置いてあった。今も置いている店はあるにはあるが少ないし、現像できる店も限られている。

「裁判所から出て地下鉄駅に向かおうとしたら、観光客に『写真を撮ってくれ』と頼まれたとか。母親は紙の箱でできたカメラを手に触ったのも初めてで、観光客の写真を撮って返すときに、『どこで買ったのか』と尋ねて、土産物屋に売っていると教えられたそうだ。それで、母親も近くの土産物屋で買って、観光客に何枚か撮ってもらったとか   それまでカメラは高級品だと思い込んでいたから、フィルムつきで十ドル程度で買えると知って驚いた   と、懐かしそうに話してたよ」

「……俺も懐かしいな」

 店長は同年代だそうだから、伸行も中学生か高校生だったはずだ。まだ東京で暮らしていたから、コンビニでは当たり前のように置いていたし、現像もプリントもコンビニに持っていっていたのを思い出す。

「たしか、最初に製品化したのは、日本の会社だったよな」

 尋ねるシドニーも懐かしそうだ。

「違うよ。他の国でも類似の商品は前からあったはず。ただ、紙の箱じゃなかったから高価だったり、写真のできが良くなかったりで、すぐに消えてたんだけど、ちょうど技術と価格の折り合いがついた時期に日本の   世界的に展開している有名なフィルム会社が出したから、予想外のヒットになったという感じかな。そのあと同業他社が類似商品を出して」

「詳しいな」

「高校の同級生に、カメラ・マニアがいたから。えんえん説明を聞かされた」

 伸行が笑ってサンドイッチを囓ろうとしたとき、洗濯機からブザーが聞こえた。洗濯が終わったらしい。立ち上がって、洗濯物をバスケットに取り出していると、シドニーも立ち上がって、その洗濯物を通路の反対側にある乾燥機へと入れている。

 全部を入れ終わり、シート状の柔軟剤を入れてからコインを投入し、乾燥機が動き出すと、伸行はふたたびベンチに座って、サンドイッチを囓った。シドニーもふたたび食事に戻りながら、苦笑する。

「コイン・ランドリーは昔からさほど進化していないな」

「値段は高くなったのに、クォーター硬貨しか使えないのも進化してない」

「俺たちも進化してないかもな」

 プラスティック容器の隅に残ったコーンをフォークでつつきながら、シドニーが笑った。「仕事で昇進したのはともかく、二十年近く同じアパートに住んでるし」

「シドニーが掃除が苦手なのも進化してない」

「おまえが鈍感なのも進化してないな」

 笑いながらシドニーが腰を浮かして伸行にキスをした。マヨネーズの味がするキスだ。

「……そういや、今日もスティーブに『鈍感』だって言われたな」

 唇が離れてから、ふと伸行が思い出すと、

「スティーブが?」

 シドニーが不機嫌そうな目でにらんだ。「しかも今日って……」

「床虫の件で事務所に来たんだよ。通報先が九一一と勘違いしている人が多いから、観光客にも徹底してくれて」

「旅行会社なんか他にも沢山あるだろうに。毎日、世界中から観光客が来るんだぜ? おまえの会社の客だけ徹底したって……」

「でも、役には立ったよ。チラシも作り直したし。それに、さっきの店長の事件だって、売り場主任が勘違いしたまま九一一に掛けたせいで、大混乱になったんだろ?」

「そりゃまあそうだが……」

 シドニーが軽く舌打ちした。「ともかく、『鈍感』ってのは、どういう状況で言われたんだ?」

「ええと……。スティーブはシフト明けだったから、すぐに帰ったんだよ。で、また夕方に電話がかかってきて……うちの事務所にいるアルバイトの話でだったかな。昔の俺に似てるって」

「どんなアルバイトだ?」

「見た目は、今どきの若者風の青年だけど、俺と違ってファッションには凝ってるかな。帽子が好きみたいで、毎日のように違う帽子をかぶってる。名前の漢字がサムライの時代の名裁判官と同じで、性格も正義漢に近いかも」

「……帽子? 名裁判官?」

 シドニーは困惑したように小首を傾げている。大岡越前を知らないのだから、わけのわからない組み合わせかもしれない。

「本人を見れば、なるほど、ってわかると思う。スティーブもいちおう納得してたから」

「あいつは納得してたのか」

 眉が片方だけ吊り上がっている。なにやら不機嫌そうだ。

「まあね。で、なんとなく昔の俺と雰囲気が似てるって。見た目は似ていないし、鈍感でもなさそうだって」

「……それで?」

「それだけ。ちょうど事務所にスタッフが帰ってきて応対してたら、電話も切れてた」

「……なるほど……」

 シドニーが大袈裟な溜息をついた。さらには頭を抱えて、独り言をつぶやいている。「あいつがそっちに行ってくれればいいが……。いや、それとも警告のつもりか、からかって遊んでるだけか」

「……どういう意味?」

「鈍感にはわからん話だよ」

 ふたたび大きな溜息をついてから顔を上げたシドニーは、伸行に軽くキスをしてから、プラスティックの容器とフォークを手に取り、やけ食いのようなスピードで口に運びだした。伸行も仕方なくサンドイッチの残りを食べる。

 鈍感と言われ続けてすでに十数年   どこがどう鈍感なのかも、いまいちわかっていないし、やはり進化する気配はない。人間の場合は「進歩がない」と言うべきかもしれないが。

 戸口から笑い声がして、膨らんだ黒いビニール袋を持った青年と、若い女性が入ってきた。ベンチに腰掛けた伸行とシドニーにちらりと視線を投げてから、一番手前の洗濯機に歩み寄り、青年が袋を逆さまにして洗濯機に入れている。女性もウエストバッグから財布を取り出して、クォーターコインをスロットに並べてから、小さなビニール袋を取り出して洗濯機に振りかけている。洗剤を小分けにして持ってきたらしい。

 洗濯機が動きだすと、二人は小声で話しながら出ていった。英語ではない。当然だが日本語でもない。

「イタリア語かな」

 シドニーがつぶやいた。「スペイン語に近いが、スペイン語ではなさそうだ。旅行者のようだし」

「近くのホテルかホステルに泊まってるのかもね」

 伸行も相槌を打ってから、コーヒーを飲み干した。「今や、ここに洗濯しに来るのは、俺たちのアパートの住人か旅行客だけだから」

「そういえばそうだな」

 シドニーもコーヒーを飲み干して、空になった容器やカップを袋にしまった。「チェルシーも進化しているしな」

「……進化か……。まあ街並みは綺麗になったけどね」

 乾燥機が止まったので、伸行は立ち上がった。乾き具合を確認しながら適当に畳み、洗濯用バスケットに積み上げる。それをシドニーが持参した紙の手提げ袋にしまっていく。この流れ作業も、いつしか習慣になっているから、ずぼらなシドニーに任せても大丈夫だ。

 全部をしまい終えると、ドアから出て階段を上る。コイン・ランドリーは地下一階で、上は普通のクリーニング屋だ。この店も昔から残っている数少ない店の一つだ。

 地上に出たとたん、蒸し暑さと喧噪に包まれた。遠くに林立する摩天楼の窓明かりがまぶしいほどに明るい。環境保護の一環で、電球や蛍光灯がLEDに変わったせいか、夜景もくっきりとした鮮やかさに進化しているかにも思える。

「早く帰ろうぜ。煙草を吸いたい」

 両手に提げた紙袋を振るようにして、シドニーが大股で歩き出した。

「禁煙できないのも進化してないな」

 伸行も小走りで追いかける。路上を含めて公共の場所が全面禁煙になってしまったので、市警察本部もスカイ・トラベル社の事務所も禁煙で、シドニーも伸行も仕事中は否応無しに禁煙しているが、アパートの部屋の中では反動のようにヘビースモーカー状態になっている。

 とはいえ、短時間に何十本も吸えるわけがないので、今や贅沢品になってしまった煙草の代金も多少は節約できていると言えるかもしれない。

「大家がアパート内も禁煙なんて言い出さないか心配ではあるがな」

「……まさかね。でも、ホテルも全面禁煙がどんどん増えてるからなあ。そういや、もう帰国したお客さんの一人が、帰国前のバスで書いてくれたアンケートに、その禁煙に関する体験談を書いてたな。そのお客さんは喫煙室だったんだけど」

「喫煙室なのに、灰皿がなかったとか?」

「灰皿はあったんだけど、連泊の二日目にタオルがなかったんだって。それでフロントに電話して持ってきてもらったそうだけど   持ってきた従業員が、タオルを置くと、脱兎の勢いで客室を出ていったんだってさ。まるで一秒でも煙を吸ったら病気になると思ってるような感じで。おかげでチップを渡す閑もなかったってさ」

「……チップよりも健康のほうが大切か」

 シドニーが足を止めて笑った。「今や、禁煙ではなく、嫌煙だな。おまえの会社の客の喫煙率はどの程度だ?」

「まだ二割くらいは喫煙室希望だな。室料が一割高いけど、それでも禁煙するよりマシだと思うお客さんはまだかなりいる」

 アパートが近づいてきた。西二十四丁目にあるこのアパートは、進化とは無縁だ。外壁は一昨年に補修したし、内装も廊下やエレベーターホールなども、伸行が祖父の死で日本に帰り、二年ほど東京支社勤務をして戻ってきたら、壁のペンキが塗り直されていたが、それ以外は変わっていない。

 従って、大家の気まぐれで長期滞在用のホテルになったりアパートになったりといった長年の変遷を経た末の不思議な内部構造   たとえばバスルームから隣の部屋へ行けるといった構造も同じだ。

 他の住人には不便でも、バスルームで繋がった二つの部屋を借りている伸行とシドニーにとっては、かえって好都合だ。二人とも服や物に凝るタイプではないから、狭いほうが掃除が楽だし、なにより通勤にも便利だ。シドニーは仕事柄、緊急呼び出しされることも多いし、伸行もツアー中の客にアクシデントが発生したら、事務所まで行かなければならない。

「……今晩は呼び出しがないといいんだが」

 正面玄関のドアを開けながら、シドニーがつぶやいた。

「そうだね。俺も明日は定時出勤でいいはずだし」

 伸行もつぶやく。「お客さんがベッドで床虫に噛まれないことを祈るのみだけどさ」

「思い出した」

 ふいにシドニーが立ち止まった。

「……何?」

 背中にぶつかりそうになりながら尋ねると、

「あれだよ。眠る前の慣用句   『Sleep tight. Don't let the bedbugs bite.』   あれ、俺のお袋が言ってたんだ。ほら、ベスがノミをつけてきたことあったろ?」

「……そういえば」

 伸行も思い出した。幼い日   まだホワイトストーンの隣同士の家で暮らしていた頃だ。伸行は小学生になったばかりだったろうか。シドニーの愛犬、ベスがどこかでノミをつけて帰ってきてしまったのだ。毛が長いコリー犬だから、風呂に入れてシャンプーしたり、逃げたノミを探したりと大騒ぎだった。

 幸いにもノミ退治は成功したが、夜遅くまでかかり、シドニーの母クララが、「もしもノブにノミがまだついてたら大変だから、今晩は泊まっていきなさいよ」と言い出したのだ。

 伸行の母が心身ともに弱かったから、驚かせてはいけないと気遣ったのだろう。そして伸行はシドニーの部屋に泊まった。

「一緒に同じベッドで眠ったよな」

「そうだったね。そしてクララおばさんが『お休み』の代わりに、『Sleep tight. Don't let the bedbugs bite.』って言ったんだ」

 三十年も昔の思い出なのに、鮮明に思い出すのは、今もそばにシドニーがいてくれるからだろうか。「もっと思い出した!」

「なにを?」

「誰かさんの寝相が悪くて、ベッドから落ちた」

「……そうだっけ?」

 シドニーは憶えていないらしい。「まあ、狭いシングルベッドだったしな……」

「そうだよ。朝、目が覚めたら、シドニーは床で寝てた」

 伸行は笑いながら、シドニーにキスをした。

                       (了)





     あとがき





 毎度ご愛読いただき、まことにありがとうございます。

 本書は二〇〇六年七月に完結した「硝子の街にて」シリーズ(講談社X文庫)の番外編です。そう、「おまけ」のようなものだとご理解いただければ幸いです。

 このシリーズも、また本書に少しだけキャラが顔を出す「PARTNER」シリーズ(中央公論新社)も完結しておりますので、続編ではありません。

 完結した作品は潔く完結したままにしておくのが最善の方法で、下手に続編を書くと、ぶち壊しになる危険もあることも、承知しております。

 ただ、同じ時期のニューヨークが舞台で、登場人物の数名はニューヨーク市警本部殺人課という同じ部署にいながら、他社の別シリーズゆえに会話すらしたことがなかった人たちを、擦れ違う程度でいいから書いてみたかっただけなのです。

 三年ほど前に、折り本程度の短さで書いてみようと思って着手しました。ところが、その直後に商業の仕事で多忙になり、棚上げになったままだったわけです。

 先月、商業の仕事が一区切りついたので、読み返し、続きを書いてみたら   なぜか長くなってしまったので、薄い同人誌一冊分にまとめることにしました。

 二〇一〇年のニューヨークの、とある夏の一日のお話です。そろそろ中年の域に入ったキャラたちの、ちょっとした近況報告程度のつもりで、お楽しみいただければ幸いです。



   二〇一四年十二月           柏枝真郷





     ACORN vol.5

    硝子の街にて 番外編

    New York 2010

      同人誌発行日   2014年 12月 28日

      Kindle版発行日 2018年 1月10日

      著者   柏枝真郷

      発行者  ACORN

      http://www.kashiwae.com/

      kashiwae@plala.to

       ©Masato Kashiwae

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